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途方もない

考えたことについて書くブログ

5年日記をつけていて、3年目に突入したはなし。多年日記について思うこと

ひとにすすめるにはいくぶん中途半端な時期ではあるけれど、多年日記について書いておきたくなった。
5年日記をつけている。3年目に突入した。日記帳を開くと、一昨年の日記と去年の日記が並んでいる状態。その次に今日のことを書くというのがなかなか面白くて、うまく続いている。

 日記をつけることは良いことだと人は言うからたぶんそうなんだろうと思って、10代のころから何度も始めては挫折していた。
最高に長く日付を継続させて書き上げたのはきっと小学生のときの夏休みの宿題の日記だと思う。あれはつまんなかった。強制・期間限定・公開前提。嫌な原因はそのあたりだと思う。
だから自主的に、毎日続けられて、人には見せなくてよくて、自分がつまらなくない日記をつけられればいいのだと思うんだけどなかなか出来ない。日記には白紙の日があってもいい、しばらく休んでもまた続ければいいということも良く聞くが、日記の間があくと、再開するときはわたしの場合かなりの力を要する。テンションが下がっちゃうというか。それでもういいや、とやめてしまったりしていたんだと思う。
それでもう長いこと日記というものが、わたしって意志が弱いの?あきっぽくてダメな人なの?と不安にさせてくる、コンプレックスの代名詞だった。(まあ、わたしってそうだよな、としぶしぶ認めつつあった。)

日記をつけるときは何に何で書くかを考える。大学ノート、日記用に日付が振ってあるノートなど、さまざまなノートに書いた。鉛筆で書くと消せるので書き直しがしやすいけれどボールペンとかのほうが長く保存する文章には合っている気がした。でも何回も書き直すのは難しい。
思うように書けないなあと思っていたら日記を兄に無断で嫌がらせ風に音読され深く傷つき、以降白紙のままになった。その後は見られないようにしたが気持ちよく書けず、白紙の多いノートがたくさん生産された。
中学生の頃は作家に憧れてワープロワープロ全盛時代だった)で書いたこともある。これは自分の書いたものが活字になるのでうれしかった。でもこれは飽きた。
手帳に毎日何かを書き留めるようにしたこともある。ブラック企業で就業中だったのでとにかく余裕が無く一年のほとんどが白紙になった。やっぱりどれも続かなかった。
このころから多年日記の存在に気づいていた。多年日記はたいてい3年からが多く、5年、10年もある。まずは1年、それすらも続かない自分には敷居が高くて無理だなと思い、手を出さなかった。
そのうちにブログやmixiなどが流行り、web上に日記を書くようになった。しかしやがてmixiはすたれ、ブログはただの日記のようなものを書くのはいまいち価値が分からなくてやめた。日常の感想を日記のようにTwitterに書くのもあまりしっくり来ていなかった。Facebookもやったが同じことになった。
SNSやブログで日記をやるのは、自分が必要としていることとは全く違うことだと気づいた。混乱してきたので、とりあえずSNSはいったん全部やめてみた。ブログはすでにやっていなかったので、日常を書き留めるツールがひとつもなくなった。

1年ほど経ち、そのころ引っ越しを終えて新しい街に住んでいた。雪が降り始めた年末に新しい街の本屋の店先のフェアで多年日記を手に取った。SNSを退会していたことが大きかったかもしれないが、書き留めたい欲がたまっていたらしい。自分に合いそうなものを選んだ。高橋書店から出版されている「5年横線当用新日記」である。日常を書き留めたいという欲が強まったとはいえ、このハードカバーでゴツい日記帳、高かったけど、ちゃんと書いていけるかしら。不安に思ったので、自分なりに決まり事を作った。
日記用のペンを決めて、日記にしか使わないこと。日記帳に向かえない日は走り書き用のメモを用意しておき、それにその日のことを忘れないように書いておく。その2つを決めた。ペンについては、そのペンを持って日記を書くという習慣をつくりたかったから。そのペン=日記モードになるように。万年筆風(ちゃんとした万年筆ではない)の青いインクの書き味が気に入ったペンにしたのは、2年以上続いた時の見た目をきれいにしたかったから。走り書き用のメモを作ったのは、多年日記というのはスペースの関係で(わたしの日記の場合、1年目から5年目までの日が1ページに収まるので)1日あたりの書ける面積が少ない。文章を書くと、深く考えずふらふらとどうでも良いことを書き、どうでもいいことでつまづいて悩み始めてしまう癖があるので、5行におさめる日記を書き続ける自信がとてもなかったから。
それで最近はこんな風に落ち着いている。まず、走り書きメモに書いて、書き残しておかなくて良いことは削り、要点を日記に起こす。清書する感覚である。一見手間のかかることをしているようだけれどこっちのほうが数十倍早くて快適。
あとは疲れていたり気が乗らなかったりして書けない日があるのでなにをしたか、天気はどうだったか、なにを食べたか、日記のかけらだけでもメモしておけば書き留めておくべきことを割り出すヒントになり、数日くらいたまってしまってもあとでリカバーできる。
何日もためてしまうと清書作業が大変だしあまり気分も良くないので、こまめに日記帳に書くよう気をつけている。
そうやって、白紙のページがない日記を2年4ヶ月間続けることが出来ている。今のところ、とばした日がないことがモチベーションの持続につながっていると思う。
あとやっぱりデザインがシンプルで飽きのこない、紙質や本の作りなど色々あるので、自分が書きやすい日記を選んだことが良かったかも。わたしのはがっしりしたハードカバーで日記帳を開いた状態で机に置きやすく、中の紙は文芸書の単行本によくあるようなちょっとクリームがかったもの。書きやすく、目に優しい。
それから年の始めと年の終わり、月の始めと月の終わりにコメントを書けるところがあって目標というほどのものではないけれど「これがやりたい」ということをいくつか書く。そして終わってみてどうだったか書く。
これは意識してゆるめに書くようにしている。達成が目的ではなく、自分の過ごしてきた時間を振り返りたいだけなので、ちょっとしたフックになればそれでいい。

多年日記帳は、長期を振り返ることがしやすいのがいい。2年目からは、1年前の自分をチェックしながら日記をつけることができる。
たとえば最近不調だと思っていても、意外ととトータルで見ると1年前よりは色々と良い方向に来ていることがわかったりして、気持ちが落ち着く。1年前つらいと思って書いておいたことが、今はわりとどうでもよくなっていたりもする。去年はこんなこと頑張ってたんだな、と思うと、また頑張ろうと思う。他人と比べることはつらいが自分の中で比較するのはつらくはなかった。
また、ささやかだけどうれしい出来事が同じ季節にあったことを思い出せたり、もうすぐりんごの花が咲くんだなあとか、本当に個人的に自分が好きなものがまたやってくる期待感などが読みとれる。自分のことを振り返ることってこんなに大事なのかとおどろくほど気分が落ち着く。何を頑張ればいいのかのヒントになる。自分の手書き文字なので、文字の調子から内容以上にその日の状況が匂いがするように詳しく伝わってくるという効果もある。
3年目になると、2年前の自分はかなり客観視できる。でも自分だから、何となく過去と今の自分が併走して、励ましあっているような感覚に陥ることもある。不安や焦りがあるときは日記を読み返してこの併走感を味わうといい。「あんたもたいへんだねえ、今もまだまだだけれど、ぼちぼち頑張っていこうと思うよ。」と前向きな気分になる。ちょっと気持ち悪いと思われるかも知れないけれど、手書きの非公開の日記を自室で読んでるだけなので、気持ち悪いことでの損失はあまりないから気にしなくて良いと思う。
ちゃんと5年続けられたらいいな。これからちょっと生活が変わる予定なのでこのやり方のまま行けるか、ちょっとわからない。
細かいことはともかく、5年続けられたらまたそのころ思うところなどをここへ書けたら良いなと思っている。

最後に多年日記のデメリットってあるかな、と思う。強いて言えば行数がかなり少なくて、書ききれないことがあることくらい。まあ、書ききれないくらいの方が振り返って一覧したとき読みやすいしそれもデメリットではないのかも知れない。あとちょっとした出費なので、少しは気合が必要。